大人のためのメディア論講義 (ちくま新書)
石田さんの活動
批評プラットフォーム〈クリティカル・プラトー〉
「タイムライン」
映像製作のプロセスを逆向きに辿る分析/批評ツール
テーゼ
テーゼ①:「記号」は「テクノロジーの文字」によって書かれている。
テーゼ②:「記号」とは「意味」や「意識」を生み出す要素のこと。
テーゼ③:私たち人間は、「テクノロジーの文字」を「読む」ことができない。
私たちには、写真のシャッターが切られた瞬間も、映画の一秒二四コマの一コマ一コマもテレビの毎秒三〇フレームも、レコードのビニール上の溝に刻まれた音波の波形も、読むことができない。(p76)
「技術的無意識」
映画にしても、実際には一秒につき二四コマの静止画像が映し出されているのですが、私たちには一コマ一コマは見えません。それであるがゆえに、私たちに動いて見える。テレビにしても方式によりますがやはり一秒に三〇フレームの画像が半分ずつ作られては消えるのを繰り返している。それが見えないからテレビ画面では動きが見える。つまり、人間と機会の能力の間にギャップがあって、実際には静止画像がコマ送りされているんだけど、それを一コマ一コマ近くすることができないから、動きを見る意識(運動視)と時間意識が生み出される。つまり静止画像が視えないから、動画が見える。/あるいは音声にしても、フォノグラフは、何かを聴く意識の成立に先立って音波のみを記録します。音波のみを書くフォノグラフによって、私の聴く意識が構成されることになるわけです。(p73-74)
見えないから見える。不在の存在が聞こえる。/私たち現代人のメディア生活の多くの部分は、そういったパラドクシカルな現象に支えられています。かといってこれは別に錯覚や幻覚ではなく、物理学的・生理学的な法則に基づき、人間の認知の能力と機械の働きの間にあるギャップを利用して成立している、メディアの働きであるわけです。例えば、映画ですと、人間における運動視という意識の活動を書き取る文字(テクノロジーの文字)が発明された、ということなのです。フォノグラフは、聴く意識を書き取るテクノロジーの文字の発明だった。/このような機械のテクノロジーの文字と人間の認知とのギャップによって、現代人のコミュニケーションは成り立っています。このギャップのことを私は、「技術的無意識 the technological unconscious」と名付けています。(p75)
伴立テーゼ:「メディア」とは、「テクノロジーの文字」の問題だ。
時代区分について
一九世紀に機械が書く文字(テクノロジーの文字)が生み出され、二〇世紀を通して文明を書き換えていく。アナログ・メディアといわれる写真・レコード・映画・電話などが発達し。これらが二〇世紀資本主義の展開と結びついて我々の文明生活を形成してきた。/しかしメディア革命は、これ一回きりでは終わらなかった。一九五〇年前後、コンピュータの開発に端を発するデジタル・メディア革命が起こる。二〇世紀には二つのメディア革命があり、これはちょうど五〇年を区切りに起きている。一九〇〇年前後にアナログ・メディア革命があり、一九五〇年前後を境としてメディアがコンピュータ化していく(デジタル・メディア革命)。(p115-117)
デジタル・メディア革命とは、平たく言えばすべてがコンピュータになるということです。(p120)
批評(クリティーク)について
クリティークというのはもともと、文字によって行われるものですね。たとえば文芸批評であれば、書かれた文字(テキスト)にたいしてメタな文字(注釈テキスト)をつける。しかしアナログ・メディアの時代には、そのクリティークができなかった。しかしいまは、映像の解析ソフトをインストールしたコンピュータにテレビ番組や映画のビデオを取り込むと、カット割りがたちどころに検出されてサムネイルが出てくる。/・・・そこで射程に入ってきたのが、メディアが意識を生み出していくプロセスを捉え返す回路を、やはりメディア(コンピュータ)を使ってつくっていく。これはメディアを認識するためのメディア・リサイクルの回路をつくることです。(p172-173)
テクノロジーの文字にたいするメタな回路をつくれば、クリティークができるようになってくる。(p175)
その具体例として、ニコ動(的なシステム)、「テレビ分析の〈知恵の樹〉」Critical PLATEAUなど
メディアに関して再帰的な問いを立てるとは、従来、「クリティーク(批評・批判)」と呼ばれてきた活動がおこなってきたことです。メディアはどのように意味や意識を生み出し、社会の他のシステムとどのような関係にあるのか。それは人間にとって、良いことなのか、悪いことなのか。活字メディア、あるいはアナログ・メディア時代のような固定したあり方をメディアが離れ、すでに何度も述べてきたように、メディア自体が再帰化した現在、社会の再帰的な活動であるクリティークを、どのように更新していけばよいのか。意識が有限資源であり、近代化のベクトルであったメディア自体が、リスクを増大させるようになってきたときに、どのようにしてクリティカルなィードバック回路をつくっていったらいいか。(p237)
「再帰性」とは、このとき、内容や相手や状況に応じて、そのつどそれ自身のあり方を変化させて調整する、というほどの意味です。その元にある原理は、サイバネティクスの「フィードバック」という考え方です。(p218)
『新記号論』という別の本では
二〇世紀の「現代記号論」(バルト、フーコー、デリダなど)について
例外的に鋭い批評眼をもった先鋭的な思想家・人文学者が、言語で、アナログメディアの記号を読み解いたものと評価
ソシュール派記号学の言語中心主義
=「すべての記号を「言語のようなもの」として、言語モデルを基本に考える傾向」(p40)
「テクノロジーの文字」の問題として、記号論をつくりなおす必要
三輪眞弘などのメディアアートに言及